明治20年~29年

▶ 明治20年

時の愛知県知事勝間田稔氏、山口県は毛利祥久氏及び同県出身の実力者とも相談し、毛利祥久氏名義を以て新田開拓の計画を内務省に出願した

12月、総面積1,100町歩の開拓の許可が得られた

賀茂用水路を延長して牟呂村に至る開鑿工事に着手した

豊川筋水運業者、その他関係者の用水路開鑿に対する激烈なる反対がぁった


▶ 明治21年

4月15日新田開拓起工式を挙げる

工事に関する一切を愛知県庁に請願し、その監督の下に必死になって取り組んで工事に邁進した

近郷近在より工事人夫が集まり来て、大船小舟は築堤材料を運搬して目まぐるしい賑わいが極め、工事は進捗した

当時海中の帳張りを見る者が「この新田が出来て獲れる米を喰って死にたい」と嘲笑したとのこと

最初大船小舟が運搬して来た土砂が毎日晩方には山と積まれたと思い、朝来てみれば跡方もなく洗い去られていることがたびたびであった、牟呂用水開鑿工事は種々苦情反対もありしが、総べて解決し、6月に工事を完了した


▶ 明治22年

7月5日澪留を行ったが、うねる大波のため2ヶ所破壊し不成功に終り、再び勇気を振るい7日に至って、ようやく成功しやや心配が晴れた

9月14日未曽有の大海嘯(津波)により原形を残さない程の破堤となった

9月の破堤により工夫十数名の死者を出だし程であったが必死に仕事を進めて遅れを取り返し、再び澪留を実行した

対岸の童浦村大字龍江より砂利、幡豆郡海岸より石材の運搬をして築堤材料とした


▶ 明治23年

5月再築による堤防延長約3里に渉る大工事が成工した

この年、一部に水稲を試作し約200俵の収穫があった

肥料は無肥料、田面耕し起さず、竹ぎれを以て田植をした

牟呂用水路は全通して用水は豊富に新田に流入した

愛知県庁の工事監督を解いた

名称を吉田新田、又は毛利新田、あるいは牟呂新田と名付けた


▶ 明治24年

延長12Km余の築堤がついに完成し、新田の形ができた、牟呂用水も開通し用水も引入れられたことにより稲苗を約350町歩に植付をした

小作者も増加し100余戸に及ぶ

無肥料、耕起のまま植え付けるものが多く、塩害により枯死するもの多かったが相当の収穫となった

10月28日濃尾震災の被害により堤防の崩壊、地盤の亀裂が甚大であった


▶ 明治25年

小作者増加し130余戸に及び、田面550町歩の植付をしたが、この年稲の育成見事にして耕作者は秋の収穫を期待し喜んでいたが、9月4日出穂の最中、叉々暴風のため破堤した

この破堤により小作人の多数が人命を失った

毛利新田はついに昔のように海面となり、ただひたすらに海水の出入りする所となり、冬季の西風が烈しい日は新田を洗った海水は引潮につれてその濁水を大海に流失し、そのために新田の損耗が激しかったと言われている

毛利氏は遂に新田再築を断念し、用水路及び干拓工事に関する権利一切を桑原為善の名義にして売却する事に決定した 


▶ 明治26年

名古屋市の人、神野金之助氏は毛利氏の事業失敗の後を継ぎ新田再築を決意し、4月15日に移転登記手続きを完了する

神野氏は過去の経歴に手本とし普通の築堤法では到底不可能なことを知り、幾多の審議を重ね、ついに服部長七氏の発明による人造石工法を採用して、6月に工事に着手した

11月内部地均工事に着手、水路、道路の築造区画整理をした

9月に大洪水あり、牟呂用水の堰が破壊した


▶ 明治27年

区画整理による耕地面積約300町歩完成し、6月に稲の植付をした

無肥料、無耕起のまま植付けたので塩害により枯死するものが多く、収穫はわずかに反当2斗~6斗位であった

3月牟呂用水修築工事完成し、ようやく完全な引水ができるようになった


▶ 明治28年

地均し及び区画整理をした面積が500町歩に及ぶ

無肥料、無耕起植付しているが中には打起すものも出てきた

塩分は相変わらず多いので枯死するものが依然多い

6月吉田新田又は毛利新田、あるいは牟呂新田の名称を改めて神野新田となった

3号堤、4号堤、5号堤の3,300間に33体観世音像を安置した

伊勢大廟より天照皇大神の御神体の分体をお願いし請け奉祀した


▶ 明治29年

3月、地主神野金之助氏は居住民の子弟教育のため村立神野尋常小学校開設の免許を得て、5月より開校した

4月15日新田内外の工事がようやく竣工を告げ、榎本農商務大臣始め多数文武官及び工事に関係あった人々をざっと2,000余名の来賓を得て盛大なる成工式を挙行し、神野新田紀徳の碑を建立した

ようやく牛耕を以て田面を耕起し田植をする様になったが、沙質土は水を引き入れると同時に固く締り竹切を以て植えるものが多かった

付と同時に塩分のため枯死するものが多く、そのために御義理植えと称して1尺より1尺2寸位の大植えをなすものがあった

当時小作人は附近部落より通い作をするものが多く、冬季は新田を見廻るものが少なく、春季に至ってから、ようやく農耕に出かける状況であった