▶ 明治40年
地主は小作家庭の竈(カマド)の改良を奨励する
牧畜講、船講等を結成して牛馬の購入、小舟の新造計画を図る
誘蛾灯及び螟虫被害の刈取を奨励する
本年より肥料の共同購入を始める
農業経営は益々困難になり負債はいよいよ重圧となり、他地方へ転出するものも多く、たまたま夜逃げするものもある
▶ 明治41年
畜牛の奨励は徹底し、牛耕は2回から3回を実行し肥料も反当大豆粕2枚より3枚を施すものもある
神野新田請願巡査駐在所を設置し、その筋より駐在巡査の派遣を請願し、最初の請願巡査は鈴木重徳氏である
この頃、居住小作者の家計困難が原因で居住者に盗心を持つ者が多く、又はけんかや口論は常であり、会議の席上では必ず口論するものがある
養鰻業を人工にて行う計画を立て、耕地整理と共に養魚場を新設、まずは二回新田より始め、山田豊作技師が責任者となる
第15師団設置に伴い小作者が労働方面に転向した関係で、小作地を変換するものが多く、地主は70から80町歩を自作することになる
収穫はこの頃より1石6斗以上を見るようになった
▶ 明治42年
二回新田の耕地整理を本格的に始める
養魚場15町歩を実施する
地主は第15師団の厩肥の運搬を奨励し奨励金を支出する
ワラの改良積を奨励し、指導員を招き実習をする
青年子女の教養を計画し、青年会を組織して各種の事業を行う
牟呂吉田青年団が結成され、三郷、五郷、二回に支部を置く
この年、比較的豊作で反当2石を収穫するものがある
▶ 明治43年
開田面積580町歩に及ぶ
養魚業がようやく有利となり神野新田養魚株式会社を設立する
本年より正條植に対する補助金制度を廃止する
元製塩場の事務所建物を自負しよりもらい受け、元神野小学校跡へ移転し青年集会場とした
この年、大降雨のため完遂区域は大被害をこうむる
地主へ掟米減額のお願いをすることが急務である
▶ 明治44年
農事試験場は小作者が一般の農業経営に対する知識を修得できたので廃場とし、農事奨励員30名を新田内に嘱託した
本年になって養魚池36町歩を新設した
11月、産業組合中央会会頭の平田子爵御一行が神殿を視察される
神野新田産業組合は産業組合中央会より事業成績優良を認められ表彰される
豊作の年で平均反当1石6斗、新田内装収穫を23,000俵と見る
三郷処女会が設立される
▶ 明治45年
農事指導員会を設置する
6月、耕地整理第1期工事完了、該当は二回新田の179町歩
農事研究のため農事指導員による先進地の観察を行った
スコット博士一行が神殿を視察された
4月20日、圓龍寺に於て宗祖大師650回忌を挙行し大谷派本願寺大谷光瑩伯が下向されて、松のお手植をされる
愛知県米穀検査事業を実施し、始めて1俵4斗入として受検して取引することとなる
9月大暴風雨、潮風の被害甚大、稲作はほとんど充実せず、米質はめったにない悪質で大凶作であった
▶ 大正2年
耕地整理第2期工事に着手
正條植(9寸角から9寸又は8寸)が増加し、同時に馬蹄形手押除草機を始める
足踏脱穀機の使用がようやく増加し、従って稲束を三手打の小束に刈るようになる
堀抜井戸の奨励をする
小作者の農事経営並びに農家経済はようやく軌道に乗り、腰を落着けて農業に精進するものが増加する
比較的豊作の年で新田内の総収穫米を23,000俵と見る
▶ 大正3年
5月、朝鮮実業家視察団の約80名が神野新田の視察に来られる
二毛作も次第に増加し、麦、菜種、馬鈴薯等の収穫に見るべきものがある
平年作の収穫が見込まれるが米価が比較的安価なため肥料代米を多く要し、収穫米の内、2分8厘を肥料代に要し4分6厘を掟米、2分6厘を小作残米と見るべき割合となる
そのため掟米減額願を地主に迫って大いに騒ぎとなった
米価は1俵4円80銭
▶ 大正4年
開田面積600町歩に及ぶ
御大典記念事業として神明社境内へ杉、桧の苗を植え込む
11月15日、神明社御造営御遷宮式を行う
この年、収穫米中地主、小作の配分割合を見るに