▶ 明治30年
地均工事は次第に進捗して開田面積550町歩に及んだ
製塩事業をヌ、ル、ヲの割一帯に創始した
牟呂用水の改築工事を始める
山城の国伏見より圓龍寺の寺籍を譲り受け遷仏式を行う
ようやく肥料として大豆粕を反当1枚位施すものがあり、牛耕大いに進む
収穫は反当6斗より1石2斗位ある
田植は尺角位いを不通とし目茶植である
居住小作人はしだいに増加し250戸に及ぶ、これら居住者は小さなワラぶき小屋の土間にモミヌカ又はワラを敷いて生活し、冬季の西北の風が強い日は砂塵がワラ囲いを通して屋内に舞込み、朝起きて見れば布団の上が白くなり、昼間は鍋、釜、飯櫃の中まで舞込むという状況であった
▶ 明治31年
地主は畜牛、畜舎の奨励を始めたが新田内に畜牛をいるもの、ほんのわずかで30戸に及ばない
住民に勤倹貯蓄心を湧養するため神野新田報徳講を設立した
敬老精神啓発のため養老施設を行う
農耕技術改善のため優秀技術者の表彰を講じた
牟呂用水を分水して花田、吉田方、牟呂地域へ引水したいと希望申し込みがあった
この頃は居住小作人等は秋の暴風季節となり天候不穏と見ると家財道具を疎開し、自身もまた安全地帯に退避する状態であった
▶ 明治32年
牟呂用水の改築工事が完成した
牛耕は全面的に普及するも1回打又は2回打多く、肥料も反当大豆粕2枚を施すものは稀な状態だ
相変わらず塩分のため枯死する水田が多く、所々点々として育成する田面を見受ける箇所がある
収穫は反当1石2斗が最高である
地主は小作米品評会規定を設け米質改良及び俵装の改善を図る
▶ 明治33年
ようやく新田の形整はととのって来たが、仕方のないことだが干拓新田は、冬季に土地が乾燥するに従い、北西の風が強い日などは砂塵が煙のように、吹雪のように巻き起り歩行も自由にできず、当時の俗に言う掘立のワラ小屋に生活する小作人は、朝起きて布団を上げれば砂塵が雪のように積っていることが時々であった、しかしこの頃より、ようやく雑草も生え干拓直後のようなことは無くなった
小作人は冬季の農閑期には大抵新田の地均工事あるいは道路、水路修築工事又は製塩上場の労働に従事し、農業には熱心ではなく、従って収穫も少なく、その生活状態はむしろ悲惨であった
畑には大豆を作付けして相当の収穫を得るものもあった
▶ 明治34年
3月、三村用水普通通水利用組合が設置され共に牟呂用水組合は完全な分水を行うことになる
4月、圓龍寺の鐘楼堂建築落成式を挙行した
地主は新田内に"いろはに"の4組の消防組を設置して、これに各1台づつの「ポンプ」を与え、又は土工用具を準備して水、火災の予防に当たらせた
い組は北組。ろ組は中南組、は組は五郷、に組は二回
米の収穫はしだいに増加し反当平均1石位を見るようになった
▶ 明治35年
神野尋常小学校は村治の関係上、3月休校になり牟呂尋常小学校に合併した
地主は小作米調製奨励方法を改め掟米5俵につき1枚づつの福引券を交付して置き、後日農談会を開き、その席上福引会を開催することとした、これは一つの農業慰安会として盛会であった
初の組合長は神野清児氏である
上下牟呂用水普通水利組合結成される
濃尾地方より移住小作するものが多く、農事改善も次第に進歩し、水田の中耕除草(ラチ打)を始める様になり、収穫は増加の傾向をたどったけれども農家の経済は依然苦しく地主に対する負担は年々増加した
▶ 明治36年
ヌ、ル、ヲの割一帯に及んだ製塩場を廃止して水田とした
地主は稲架の奨励をして「ハザナル」の無償貸付をした
4月圓龍寺本堂建築落成上棟式を挙行する
伊勢、尾張、美濃方面より移住小作するものが多数である
一方、農業経済の苦しさに耐え兼ね、多方面に移住するものが有った、居住者の転出入が多くなった
要するに農業経済の苦しさと生活難にあえぐ状態に耐えられず自己の永住を決意することができず、その住居を転々とする開拓地にありがちな状態である
▶ 明治37年
4月15日、圓龍寺の入仏先を挙行する
地主は正常植えの奨励をする
木曽川改修により濃尾地方より移住してくるものが多くなり、ようやく農業に精進するものが増加したが、今だ期待する収穫を見ることができてなく農業経営は依然困難である
木曽川沿線より移住して来たものは、ほとんど水南に怯えるものが多く、暴風季節になると家財道具を運搬し、安全地帯に避難し、転向不穏とみると戦々恐々な有様である
▶ 明治38年
新田の経営を神野富田殖産会社にて行うこととなる
地主は緑肥を奨励し、紫雲英、青刈大豆を作付けするものに種を配布した
ワラの鋤込みの奨励をし、100貫匁に対し補助米1斗2升を給与する
8月、神野新田信用組合は無限責任を有限責任とし理事、監事の任期を3ヶ年とした
本年は信用組合出資困難の理由により組合解散の声が高かったが、県の強力な方針と地主の斡旋により解散を喰い止めた
豊年の年で新田内の収穫米は約18,500俵とみる
▶ 明治39年
牟呂村が牟呂吉田村となり行政区割りに変更があった
県立農業試験場の監督のもとに農事試験場を設置する
地主は堆積肥肥料奨励規定を設け自給肥料の増産を図る
共同苗代地を4ヶ所、7町歩を設置する
上牟呂用水事務所を八名郡役所、下牟呂用水事務所を渥美郡役所内に置き、その管理を各郡長に委託した
この年中組、北組、南組と分かれていた行政区割を合併して字三郷部落とし、役場方面の行政事務をうけもつ
神野三郎氏、神野新田産業組合の第2代目組合長となる
農業経営困難により北海道及び三方原、高師原方面へ転居するものが続出する